第2次世界大戦 ドイツ機
単発機
メッサーシュミットMe109 戦闘機

第二次世界大戦でドイツ空軍が全期間と通して使用した主力戦闘機。
約30000機が製造され、ドイツばかりでなく、枢軸国を中心に各国で使用され、戦後も東欧各国やスペイン等で製造され使われた名戦闘機である。
1934年、BFW社(後にメッサーシュミット社と改名)のウイリー・メッサーシュミット技師を中心に設計が開始され、1935年から製造が行われている。
列強各国開発した同時期の戦闘機同様、単葉で金属機体、引込脚などを標準とした単座戦闘機である。
脚が胴体に直接付いていて、翼端に向かって引き込まれる構造が特徴であり、ここはライバルであったスピットファイヤと同じである。
この方式は、複雑で重量がある引込装置を軽量簡素化することで機体の軽量化を狙ったものであるが、車輪間の間隔が狭く、安定性が悪いという欠陥があった。また、脚を斜めに設置したことで強度が不足し、機体の割りに強力なエンジンを搭載したため、曲がる癖となり、離着陸を難しくした。
このため、離着陸時に多く事故が発生している。

しかし、この構造を改めることは設計全面の否定につながるため、最後まで基本設計を改められることはなかった。
特に新人パイロットには難しい機体ではあったが、操縦も慣れると良好な飛行特性・性能で多くのパイロットから強い信頼が寄せられた。
エンジンはドイツ得意の水冷式DB601・605を積んだ。
このエンジンは高性能であったが、製造とメインテナンスは難しかったが、このエンジンに固執しすぎて大戦後半には連合軍の新型機に苦戦することになる。E型は1100馬力エンジンで570km/hの速度であり、G型になると1500馬力エンジンとなり685km/hの高速であった。
このエンジンのライセンス生産品が日本の飛燕に積まれたが、ドイツほどの製造能力がない日本に扱えるものでなかった。
飛燕が十分に活躍できなかった原因は工業水準の差を考慮せずに開発を行ったためである。
初陣は1936年7月〜38年12月のスペイン内乱に投入され、ソ連製I-15戦闘機を圧倒したが、特段の問題が明らかにならなかったため、マイナーな改造で大戦に突入した。

この戦闘機のみならず、ヨーロッパ各国の戦闘機共通の最大の欠陥は航続距離であったが、この大きな欠陥はバルト・オブ・ブリテンでクローズアップされた。なんと本機の航続距離は670km程度と自動車並みでしかなかったのである。
同時期の零戦が2450kmという航続距離があったのに比べれば比較にもならないものである。
これは陸上空での空戦が主であるため、どこにでも降りれ、給油が容易であるという考えからであろう。
ただ、戦闘機による長距離爆撃機の護衛という考え方がなかった訳ではない。
そのためにドイツはメッサーシュミットMe110双発長距離戦闘機を開発していた。
しかし、バトル・オブ・ブリテンが始まるとメッサーシュミットMe110双発長距離戦闘機は単発戦闘機に全く歯が立たず、爆撃機が大損害を受けてしまう。
何とか対応できたのはMe109であったが、この航続距離では全力で戦闘した場合は、イギリス上空に10分程度しか留まることが出来なかった。
増槽を付けた型でも1000km程度に延びたに過ぎなかった。
武装はE型で 7.92o機関銃2門、20o機関砲2門、後のG型で13.1o機関銃2丁、20o機関砲1門であった。
戦闘機との戦いは性能的には大戦全期間を通して問題はなかった。しかし、大戦末期になるとパイロットに新人同然の者が多くなり太刀打ちできなくなる。
さらにアメリカ軍がB17などの防御力の大きな爆撃機を投入すると、対戦闘機用の本機では、ベテランが操縦しても設計上、攻撃力強化が難しく対応が困難であった。

多くの形式があるが代表的な機種としては、ダイムラーベンツ製エンジンDB 601Aを搭載したE型(エーミール)が二次大戦初期の主力であり、DB 601E及びDB 601Nエンジンが搭載されたF型(フリードリヒ、またはフリッツ)中期の主力、DB 605エンジンを搭載したG型(グスタフが後期の主力機であった。この他、双発型や水上戦闘機型もあった。
さらにアメリカ軍がB17などの防御力の大きな爆撃機を投入すると、対戦闘機用の本機では、ベテランが操縦しても設計上、攻撃力強化が難しく対応が困難であった。
多くの形式があるが代表的な機種としては、ダイムラーベンツ製エンジンDB 601Aを搭載したE型(エーミール)が二次大戦初期の主力であり、DB 601E及びDB 601Nエンジンが搭載されたF型(フリードリヒ、またはフリッツ)中期の主力、DB 605エンジンを搭載したG型(グスタフが後期の主力機であった。この他、双発型や水上戦闘機型もあった。

掲載モデルはF2型、第51戦闘航空団司令 ヴェルナー・メルダース中佐乗機。1941年7月東部戦線。

(ヴェルナー・メルダース)
第二次世界大戦のドイツの撃墜王。スコアは115機。
スペイン内戦ではコンドル軍団に参加。新型戦闘機メッサーシュミットMe109の高速性能を生かしたロッテ戦法を編み出した。
メルダース自身はコンドル軍団で14機を撃墜。第二次世界大戦開戦時には大尉、第53戦闘航空団第1飛行隊第1中隊長(1./JG53)で迎え、1940年3月にはドイツ空軍で最初に20機撃墜を達成した。しかし、対仏戦で6月5日、フランス軍機に撃墜され捕虜となるが、フランスの降伏で釈放され、ドイツへ帰還して少佐に昇進、第51戦闘航空団司令となる。
次にバトル・オブ・ブリテンに参加。その後、独ソ戦開戦で東部戦線に参戦、一気にスコアを伸ばし1941年7月15日には101機撃墜と史上初の100機撃墜を果たし国民的英雄となる。しかし、この国民的英雄の戦死による士気低下を恐れた軍上層部は、メルダースを大佐に昇進させて戦闘機総監に任命した。
ところが、彼はこっそり戦闘に参加し、その後、15機を撃墜したという。しかし、メルダースの最期はあっけなく訪れる。
空軍技術局長エルンスト・ウーデットの国葬に参列するため本国へ向かうメルダースの乗ったハインケルHe111が1941年11月22日、悪天候のためドイツ東部のブレスラウ付近で墜落、事故死してしまうのである。
彼の名は現在、ドイツ海軍の駆逐艦名に付けられている。

この白い機は撃墜王、エーリッヒ・ハルトマン乗機、G(グスタフ)−6型である。
1943年後半、連合軍の新型戦闘機に対し、メッサーシュミット社は109の大改造版Kシリーズの開発に着手したが、開発時間がなく、そのつなぎとして開発されたのがG型である。
その初期の代表型がG-6である。
G-6からは、そのマイナーチェンジ型であるG-10、G-14が量産さられた。
パワーブースト付きのDB605AMエンジンを搭載したG-14は、機首エンジンナセルの形状こそG-6以前のバルジ付きであったが、G-14の多くの機体は大型木製垂直尾翼を装備した機体が多くエルラ・ハウベと呼ばれる視界の広いキャノピーとともに、後期のBf109の外観的特徴を備えているのが特徴という。

黒い悪魔エーリッヒ・ハルトマン)
「黒い悪魔」とはソ連軍が付けたハルトマンのあだ名である。
このあだ名自体が撃墜王であることを示している。その名のとおり、彼こそ伝説の撃墜王なのである。
ドイツ空軍史上のみならず空戦史上最高の352機というスコアを持つ。
ハルトマンは、空軍の最若年パイロットとして1942年10月に第52戦闘航空団(JG52)に配属され、東部戦線でソ連軍と戦う。
この時、わすか18歳であった。配属後7ヶ月は目立った戦果を上げていないが、1943年5月から10月の間に撃墜数121機という驚異的なスコアをあげ、エースとしての能力が開花。1944年8月には300機撃墜を果たす。
これによりJG52の第2飛行隊長代理、兼第7中隊長へ昇格。この頃から機首に「黒いチューリップ」のマーキングを描くようになり、東部戦線のソ連軍からは「黒い悪魔」として恐れられるようになる。
1944年5月には第U飛行隊は東部戦線を離れ、ルーマニア、ハンガリーといった東欧に転戦し、米空軍機とも戦火を交わす。
1945年に入り、ガーランド中将の指揮するMe262を擁するエースパイロット部隊第44戦闘隊への参加要請があったがハルトマン少佐はJG52に残り東部戦線で終戦を迎えた。
度々、ハルトマンのスコアに対し東部戦線の技量の劣るソ連空軍を相手にしたものとか、スコアの確実性がないと批判される。
しかし、大戦初期にはそれほどのスコアを上げてはおらず、300機以上はドイツ軍が守勢に回った1943年以降の約1年余に記録したものである。
また、ドイツ軍の撃墜認定は英米よりもはるかに厳格であり、かなり精度は高いという。

ハルトマンの戦法は、従来の撃墜王のイメージとは大きく異なる。彼はドッグファイトは避け、一撃離脱戦法を採った。
優秀な視力に加え、射撃の腕前も凄かったというが、敵に雲や逆光を利用して接近する方法、離脱する技量に優れていたという。
編隊指揮官になると、部下を大切にし、一撃離脱戦闘法を集団戦闘にも応用し、戦隊としての戦果もまた帰還率も抜群であったという。
そして決してリスクは犯さないようにしたという。このため、ハルトマンが中隊長を務めた第9中隊は「カラヤ中隊」、あるいは「エキスパート中隊」とも呼ばれた。
これは彼の指揮官としての能力をも示すものである。
彼は1405回出撃し、一度も負傷しなかった。最後に撃墜した機は、ドイツが降伏した5月8日に記録している。
ドイツ降伏の時、彼はわずか23歳であった。
彼は、僚機を省みない個人戦法のドッグ・ファイティング型のエース・パイロットを「僚機を失った者は戦術的に負けている」と批判し、自分の驚異的な撃墜数よりも、一度も僚機を失わなかったことの方を誇りに思っていると語っている。
やはり単なる撃墜王ではない。1993年71歳で波乱の人生を閉じた。

フォッケウルフFw190 戦闘機
第二次世界大戦前からドイツの主力戦闘機メッサーシュミットMe109は脚構造が原因で着陸事故が多発し、その無視できないほどの事故率の高さを憂慮したドイツ空軍は、フォッケウルフ社に対して補助戦闘機の開発を依頼した。

フォッケウルフFw190A8
フォッケウルフ社はこれを受けてクルト・タンク技師を中心に開発を進め、新型戦闘機の試作、初飛行に成功した。
完成した戦闘機は空戦性能、操縦性も良く、メインテナンス性に優れ、量産向け構造のものであった。
さらに防弾性も高かった。この戦闘機はフォッケウルフFw190と名づけられた。

最大の特徴は、水冷エンジン主体のドイツでは唯一の1500馬力の空冷エンジンBMW139が搭載された点である。
量産型ではこれはより高出力の1800馬力 BMW801が搭載された。最高時速は650km/hであった。

大戦初期はMe109が圧倒的な強さを誇っていたので注目されなかったが、イギリス軍が新型機スピットファイヤMK.Xを投入すると苦戦するようになり、これに対抗するため、1941年から量産と配備が始められた。
フォッケウルフFw190 D9 通称「ドーラ」
しかし、当初はあくまでMe109の補助という扱いでしかなかった。

実戦ではスピットファイアMk.Vを圧倒し、特に中低空域での戦闘能力は抜群であり、高空性能に優れるMe109とローアンドハイミックスで共にドイツ空軍を支えた。

Fw190は低中高度での性能に加えて、Me109の欠陥を解消した広く安定した車輪間隔により着陸時のトラブルを防止し、さらに頑丈な機体構造を有した。

タイプとしては戦闘機型のA型と戦闘爆撃機型のF、G型など多様な種類があった。しかし、大戦後半には連合軍の爆撃機が高高度で侵入するようになると、本機の空冷エンジンでは対応できなくなり、高高度性能を改善するためA7型をベースにユンカース社の水冷エンジンjumo213を搭載したD-7型が開発され、改良型のD-9型が量産された。

この型は必然的にノーズが長くなり「ドーラ」と通称された。
この戦闘機はP51や、スピットファイアMk.XIVとも互角に渡り合える戦闘機であったが、このころこの戦闘機の性能を引き出せるパイロット自体が欠乏状態となっていた。
Fw190シリーズの製造数は、最終的には20000機あまりであったという。

フォッケウルフ Ta152戦闘機
ドイツのレシプロ戦闘機の集大成とも言うべき機がTa152。
Taは設計者、フォッケウルフFw190の設計者、クルト・タンク博士に敬意を示し、そのイニシャルを採ったものという。
空軍の高高度対応んの高性能戦闘機の要望を基に、フィッケウルフFw190D-6型「ドーラ」をベースに2000馬力級水冷エンジン、ユンカース・ユモ213Eを搭載した。
当時、ドイツにはフォッケウルフFw190A型があったが、空冷戦闘機であるため高高度を飛ぶ爆撃機に対応できず、メッサーシュミットMe109は高高度性能は良かったが、機体が小型で大口径砲が搭載できなく、有効な単発爆撃機迎撃機がなかったことが開発のきっかけであったという。
このため、高高度を飛ぶ連合軍爆撃機の迎撃に対応し、与圧キャビンを装備。

高空用に設計したグライダーの様に細長い主翼を持ち、先端からコックピットまでの長さが長く、コックピット、主翼が後退した形状が特徴。
全長は、FW190Dの10.192mに対し10.810mと長い。
コクピットより前方が長くなったのは、爆撃機迎撃用に、機種上部のMG151/20E機銃と、軸内発射機関砲30o、Mk108、又は、Mk103を搭載するためという。

1943年9月に基本設計案ができ、1944年7月には原型機が初飛行、その後テストと改修が加えられ、1944年秋に量産型がH-1発注され、12月にはただちに第152実験隊に配備され、実戦テストが開始され、かなりの戦果を上げたという。

しかし、実戦に登場した時期が余りにも遅すぎ、数も少なすぎ、さらに戦争末期の混乱もあり、戦果の詳細は不明であるが、ヨゼフ・カイル曹長など、何人かのエースが登場したともいう。
なお、Ta152の高性能を示す話として、先行量産型のH-0に搭乗したタンク博士がP-51マスタング4機に遭遇、追尾されながらも悠々と振り切り無事帰投したというエピソードがある。
時速750kmという高速を持ち、旋回性にも抜群の性能を有し、一撃離脱、格闘戦のいづれにも向いていたという。
兵装は 30mmプロペラ軸内砲と主翼の20mm機関砲2門の計3門のH型と 13 mm 機関銃2門、 20 mm 機関砲4門という重武装であり、対爆撃機攻撃も十分な能力を有した。

Tank152 
フォッケウルフFw190シリーズの集大成。究極のレシプロ機

メッサーシュミットMe262 ジェット戦闘機
世界初のジェット戦闘機として飛行機の歴史に残る機種である。
しかし、開発は大戦前から行われており、設計は開戦前には完了していたという。
ところが、エンジンの開発が遅れ、BMW 003エンジンが未完成であり、ジェットエンジンをユンカース社のJumo004に交換し1942年7月にジェット機として初テスト飛行を行った。だだし、Jumo 004エンジンはBMW 003より重く重心を後ろにずらし後退翼となった。

現在のジェット機はほとんどが後退翼であるが、Me262がその先鞭を付けた訳ではないのである。
1943年11月にヒトラーが飛行を視察するが、ヒトラーの関心は爆撃機に使えるかということであり、爆撃機としての製造が命じられる。

しかし、エンジンの実用化に難問が山積し、製造開始は1944年に遅れた。
結果として爆撃機として使用されることは余りなく、アルデンヌの戦い等で散発的に出撃した程度である。
連合軍の爆撃が激しくなるとようやく空軍の強い要望で一部が戦闘機として用いられる。

連合軍の爆撃機に対抗できるのはこの機種しかなく、戦闘機としての活躍がドイツ戦闘機の最期をかざることとなる。
戦闘機タイプは30mm機関砲4門の他、55mm R4M ロケット弾24発を搭載していた。
しかし、エンジンは未完成の状態のままであり、12時間程度の寿命しかなく故障も多く稼働率は低かった。
また、上昇速度が遅いという欠陥があった。しかし、飛行機がいったん上昇してしまえば、抜群の性能を発揮することができた。
最高時速は870qであり、プロペラ機で追いつけるものはなかった。 一撃離脱戦術で爆撃機を撃墜した。しかし、ドックファイトには向かず、離着陸時に攻撃されると弱かった。このため離着陸時はFw190が護衛した。この高性能機であっても登場時期が遅すぎ、圧倒的な連合軍物量にはものの数ではなく、戦争の趨勢を変えることはできなかった。
戦後はジェット機が主体となるが、そのベースはこのMe262である。モデルは複座夜戦型

ユンカースJu87急降下爆撃機

急降下爆撃機といえば、誰もが思い浮かべるのがこのJu87であろう。
急降下爆撃機の代名詞となっている。通称「スツーカ」はずばり「急降下爆撃機」という意味である。
日本の99式艦爆やアメリカ軍のドーントレスも急降下爆撃機として実績があるが、このJu87には知名度ではどうしてもかなわない。
なにしろ個性的なシルエットであり、タイガーT型戦車と共通の無骨さではあるが、力強さを感じさせる。逆ガルウイングに魅せられ今でも根強いファンが大勢いる。
この機種の開発のヒントはアメリカ海軍のSBCヘルダイバーであったといわれる。
陣地攻撃には砲撃で制圧するのが当時の一般的な戦術であったが、ドイツは砲撃の役目を急降下爆撃に持たせる狙いがあったという。
当時の航空機による爆撃は水平爆撃であったが、精度に欠け、一方では急降下爆撃は高精度であった点に着目したという。
ドイツ航空省は急降下爆撃機の設計発注を1933年9月にユンカース社とハインケル社に発注し、ユンカース社が落札、1937年から製造を開始、スペイン内戦で実績を上げ、エンジンをJumo211A(1000馬力)に換えた。


Ju87D3 スツーカ 第2急降下爆撃航空団「インメルマン」所属機 

ポーランド侵攻では砲撃の役目をこのJu87が負い、ピンポイント爆撃でポーランド軍の拠点を撃破し、機甲師団が攻撃し制圧するという陸空一体の戦術をとった。
この戦術はフランス戦でも用い、急降下時に発するサイレン音だけで地上の敵兵を恐怖に陥れ、戦意を喪失させたという。
しかし、Ju87は鈍足であり、イギリス軍の単発戦闘機に遭遇すると損害が増加した。
このため、制空権を握っていた東部戦線では有効であったが、西部戦線では夜間攻撃以外には使われなくなる。

また、東部戦線では地上のソ連兵はフランス兵のようにJu87の急降下でも余りおびえることはなく、対空砲火で反撃したため損害も多く、フランス戦のような効果は少なかったという。
ソ連がT34などを投入してくると、右のモデルのようなJu87に対戦車攻撃用主翼下に37mmFlak18 2門を搭載したG型が登場し、ソ連戦車を空から撃破した。
これは制空権が確保されていたため可能であったことによる。
Ju87Gで活躍したハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐は、なんと2530回の出撃で軍艦3隻、戦車519両、装甲車800両、航空機9機を撃破したといわれている。
Ju87は時速こそ380km/hと鈍足で武装も7.92mm機銃3挺と貧弱ではあったが、戦闘機の援護さえあれば有効な兵器であり、爆弾も最高1000kgも搭載できた。これは日本の双発爆撃機と同程度の量である。
また、頑丈な機体であり、固定脚のため不整地でも離着陸性は良好であった。
ルーデル大佐は撃墜された部下を救助するため、Ju87で強行着陸し、後部座席に載せて飛び立ったという。